ストレンジレットって危ないの?
私の好きなyoutubeチャンネルにKurzgesagt *1 というアニメーションで解説するチャンネルがあります.その一つに,こんな動画が存在します:
ソースのリストは
この動画で,「ストレンジ物質で世界滅亡!!!!」みたいなことが言われていました.みなさん,世界を滅ぼしたいですよね? この主張にどれくらい信ぴょう性があるのか,理解してみましょう.
基礎知識: ストレンジクォーク
物質は原子からなり,原子は原子核と電子からなります.で,原子核は陽子・中性子からなっていて,陽子・中性子は「アップクォーク」と「ダウンクォーク」が強い相互作用によって束縛された状態です.実は,「アップクォーク」と「ダウンクォーク」以外にもクォークは6種類あります.残りの4種類は重くて日常のエネルギースケールでは滅多に出てきません.
その滅多に出てこないクォークの中で一番軽いのがストレンジクォークです.なので,ちょっと頑張る *2 と最初に混じってくるのがストレンジクォークが混じってきます.(K中間子やハイペロンなど)
そういったストレンジクォークを含んだ物質のことを (ざっくり) ストレンジ物質 (strange matter) と呼びます.ストレンジ物質は中性子星内部に存在するんじゃないか,という期待があります *3.
なにが危ないの?
「ストレンジ物質仮説」という仮説があります.*4 普通の核物質はアップクォーク・ダウンクォークのみからなりますが,実はストレンジクォークが混じった物質のほうが安定なのではないのか,という仮説です. 「ストレンジクォークは重いのですが,そのエネルギーコストを払ってでも選択肢を増やしたほうが得」みたいな雰囲気です. ノリで言うと,クォークはフェルミオンで,1状態に1つしか入れないので,たくさんいると高エネルギーの方に行かざるを得ません.すると,どんどん詰めていくと,「ストレンジクォークに詰まる方が得か,アップクォーク/ダウンクォークの方が得か」みたいな勝負になってくるわけです.
まぁ高密度環境なら当たり前なのですが,「ストレンジ物質仮説」の主張を正確に言うと, 「(ゼロ温度・ゼロ圧力環境下で,) 密度を好きに変えてfree energyを最小化した時に,核物質よりもストレンジマターの方が単位バリオン数あたりのエネルギーが低い」 と言う主張です.
まぁ理想化された一様核物質だったらそういう事もあるかもね,って感じなのですが,小さいサイズでも安定かもしれないという予想もあります.この小さいストレンジ物質の塊をストレンジレットと言います.
で,その小さいストレンジ物質が地球に来たら,「ありとあらゆる地球の物質をより安定なストレンジ物質に変えてしまって世界がヤバイ!!!」みたいな話です.
安心してください,地球は45億歳です.
いやそもそも科学は観測事実を説明するためにあってぇ……地球は既に45億年も生きててぇ……それを超えるレアイベントが起きないと地球を破壊できなくてェ……
まず,真の安定な状態が別にあるからといって,地球を滅ぼせるわけではありません. だって,我々は水素や酸素に比べて,鉄のほうが安定な原子核であることを知っているわけですが,無理やりfusionさせないと核融合なんてめったに起きないんですよ. 原子核は他の核と程よい距離を保っているわけです.原子核は正電荷を持っているので,そのバリアを乗り越えないと核融合できないんです.
もしstrangeletが安定に存在してそっちの方が基底状態だとしても,u,d,sクォークで作ると正の電荷をもつのが自然です.なぜなら,u,dが軽くてそれぞれ電荷+2/3, -1/3; sが重くて電荷-1/3という状況なので,相当変なことしないと電荷は正です. だから,もしstrangeletが安定でも,ふつうの物質をストレンジ物質に変えるためには核融合と同じくらい大変で,ストレンジ物質で地球を滅ぼすのは難しいわけです.かなしいね.
調べてみたことをまとめる
もともとの「ストレンジ物質仮説」 これ自体は非自明な仮説として残ってると思う. ストレンジ星があるかないかは未解決問題.
安定なストレンジレット ("小さい" ストレンジ物質の塊) が存在するか? これはやや否定的. 宇宙線観測的にはPAMELA実験 *5 とか月の土壌での観測 *6 で小さいストレンジレットの探索が行われたが,見つからなかった.
世界を滅ぼすのに使えるか? ありそうもない (例えストレンジレットがあったとしても,ふつうは正電荷なので,核融合させるくらい難しい)
より詳細なストレンジレット生成についての,なんだかワクワクするタイトルのreviewは W. Busza, R. L. Jaffe, J. Sandweiss and F. Wilczek, "Review of speculative 'disaster scenarios' at RHIC," Rev. Mod. Phys. 72, 1125-1140 (2000), doi:10.1103/RevModPhys.72.1125 [arXiv:hep-ph/9910333 [hep-ph]]. を参照のこと.
件の動画で言っているカタストロフィックなシナリオは,相当無理な仮定を積み重ねないと起きなさそうです.
*1:ドイツ語で「shortly said」みたいな意味
*2:strange massは100MeVくらいなので,温度で言うと1兆度くらいだとストレンジクォークがポコポコ出せるようになります.
*3:ストレンジクォークを含む個々の粒子はぶつければ全然作れますが,「物質」と呼べるくらいのものを作るには中性子星内部くらいの極限環境が必要です
*4:E. Witten, ``Cosmic Separation of Phases,'' Phys. Rev. D 30, 272-285 (1984), doi:10.1103/PhysRevD.30.272; A.R. Bodmer, "Collapsed Nuclei". Physical Review D4, 1601–1606 (1971), doi:10.1103/PhysRevD.4.1601 . ストレンジ物質のよいreviewとして J. Madsen, "Physics and astrophysics of strange quark matter," Lect. Notes Phys. 516, 162-203 (1999), doi:10.1007/BFb0107314 [arXiv:astro-ph/9809032 [astro-ph]].
*5:O. Adriani et al. [PAMELA], "New Upper Limit on Strange Quark Matter Abundance in Cosmic Rays with the PAMELA Space Experiment,'' Phys. Rev. Lett. 115, no.11, 111101 (2015) doi:10.1103/PhysRevLett.115.111101
*6:K. Han, J. Ashenfelter, A. Chikanian, W. Emmet, L. E. Finch, A. Heinz, J. Madsen, R. D. Majka, B. Monreal and J. Sandweiss, "Search for stable Strange Quark Matter in lunar soil," Phys. Rev. Lett. 103, 092302 (2009). doi:10.1103/PhysRevLett.103.092302 [arXiv:0903.5055 [nucl-ex]]. これは,昔宇宙ステーションでのAMS-01実験で「これはstrangeletか?」と言われたイベントがあったが,それを否定した仕事にあたる.
SF脳とリアル脳を読んだ
大体は真面目用途に読むことが多いと思われるBLUE BACKSに,すごく面白そうな本を見つけてしまった。「SF脳とリアル脳」という本だ。
脳を弄ることはみんなの憧れであり,SF作品には脳に関する(架空の) 未来技術が数多く出ている。そんなSFに出てくる脳関連テクノロジーあるあるネタを,現在の科学的知見に基づいてどこまで可能なのかを神経科学者が語る本となっている。そんなの面白くない訳がない。
ここでは、この本で出会った最近の研究に基づいた脳のおもしろトリビアを列挙しようと思う。たくさん紹介されているが、ここでは個人的に面白さを感じた4点に絞って紹介する。
- 皮質脳波からテキストのデコードができる!
- 桶の中の脳にも身体が必要: 摘出された豚の脳は意識がない
- 冬眠状態を引き起こすニューロンがある!
- 脳は睡眠至上主義: 寝かせないと全身を破壊し出す。
皮質脳波からテキストのデコードができる!
頭皮上脳波だと難しくても、頭蓋骨のすぐ内側、脳の表面 (皮質) に直接電極を設置して脳波を記録すると、解像度の高い脳活動の情報が得られる。この皮質から得られる脳波のことを皮質脳波(Electrocorticography, ECoG)という。驚くべきことに、「ECoGのデータから言語のデコーディングがある程度できるという報告がある!」とこの本で紹介されていた。
この本で紹介されていた論文ではないが、そういったSpeech brain-computer interfaceの研究の潮流があり、ここではWillett らの2023年の研究を紹介しよう。
Willett, F.R., Kunz, E.M., Fan, C. et al. A high-performance speech neuroprosthesis.Nature 620, 1031–1036 (2023). https://doi.org/10.1038/s41586-023-06377-x
この研究では、筋萎縮性側索硬化症(ALS)により明瞭に話せなくなった研究参加者の脳(運動皮質)に「皮質内微小電極アレイ」を埋め込み、高解像度の神経活動(個々の神経細胞の発火、スパイク活動)を記録。これを機械学習アルゴリズムで解析し、意図した発話をテキストにデコードすることを試みる。 この研究の驚きポイント: - 精度・速度の向上: 50語の語彙セットを用いたテストでは、単語エラー率(Word Error Rate, WER)は9.1%を達成。これまでの最先端の音声BCIと比較してエラーを2.7分の1に削減。12万5千語という大規模語彙を用いたテストでも、単語エラー率23.8%でのデコードに成功した。 デコード速度は毎分62単語(62 WPM)に達した。これは、自然な会話速度(毎分約160単語)に近づき始めている。 - 神経科学的知見: 発話に関わる神経細胞のチューニング(特定の動きや音に対応する活動)は、脳の比較的小さな領域内に空間的に混在しており、少数の電極からでも正確なデコードが可能であることを示唆した。将来のSpeech Brain-computer Interfaceの期待に胸を膨らませられる。
桶の中の脳にも身体が必要: 摘出された豚の脳は意識がない
誰しも一度は「身体から脳を摘出して肉体から切り離された精神活動だけできる存在になりて〜!」って思ったことがあると思う。そんな我々に残念なお知らせがある。 この本で紹介された、2019年のVrseljaらの研究をみてみよう。
Vrselja, Z., Daniele, S.G., Silbereis, J. et al. Restoration of brain circulation and cellular functions hours post-mortem. Nature 568, 336–343 (2019). https://doi.org/10.1038/s41586-019-1099-1
この論文の推しポイントは「死後4時間経過したブタの脳という、”死んだ脳”に対して、微小な血液循環を再開させ、さらに神経細胞やグリア細胞などの様々な細胞の基本的な機能を部分的に回復・維持できた」ことであるが、それ以外にもさまざまな観察が得られた。「SF脳とリアル脳」によると、この研究では、この研究の技術により「生きた」状態の摘出された脳にすることができたのにも関わらず、意識が存在する時の統制の取れた脳活動は観測されなかったそうだ。 精神活動に肉体は欠かせないらしい (少なくとも、現在の技術水準では)。
冬眠状態を引き起こすニューロンがある!
「SF脳とリアル脳」の著者を含むグループの研究で、マウスに「冬眠を引き起こすニューロン」が視床下部の一部の小領域に見つかったらしい。 つまり、あるニューロン群を持続的に興奮させると、長期に渡り、持続的かつ安定な低体温・低代謝を引き起こすことができるという。これはQ (Quiescence) ニューロンと命名された。
Takahashi, T.M., Sunagawa, G.A., Soya, S. et al. A discrete neuronal circuit induces a hibernation-like state in rodents. Nature 583, 109–114 (2020). https://doi.org/10.1038/s41586-020-2163-6
もしかしたら人工冬眠は遠くない未来に可能で、宇宙旅行に用いられるかもしれない。
脳は睡眠至上主義: 寝かせないと全身を破壊し出す。
Sang D, Lin K, Yang Y, Ran G, Li B, Chen C, Li Q, Ma Y, Lu L, Cui XY, Liu Z, Lv SQ, Luo M, Liu Q, Li Y, Zhang EE. Prolonged sleep deprivation induces a cytokine-storm-like syndrome in mammals. Cell. 2023 Dec 7;186(25):5500-5516.e21. doi: 10.1016/j.cell.2023.10.025.
2023年のSangらの研究チームは、マウスを効率よく長期間眠らせない新手法で実験を行った。その結果、深刻な睡眠不足は、免疫系が暴走する「サイトカインストーム」のような状態を引き起こし、多くのマウスが死亡することを発見した。 睡眠不足が長く続くと、「眠りを誘う物質」として知られる「プロスタグランジンD2 (PGD2)」という物質が脳の中で過剰に作られる。通常、脳は「血液脳関門」という厳重なバリアで守られているが、睡眠不足が続くと、このバリアにある特定の”門”(ABCC4という名前の輸送体)の働きが異常になり、過剰になったPGD2が脳から血液中へと大量に漏れ出してしまったとのこと。 血液中に漏れ出したPGD2は、体中の免疫細胞(特に好中球という種類の白血球)にある特定の”受信機”(DP1受容体)にくっつきます。すると、免疫細胞は「やばいやばい!」という誤った信号を受け取り、一斉に活性化する。これが、サイトカイン(免疫細胞が出す信号物質)の過剰放出、つまりサイトカインストームを引き起こし、全身の臓器にダメージを与えていたのです。*1
*1: なお、さらに、研究チームがこの「脳からの物質漏洩 → 免疫暴走」という経路を薬などでブロックしたところ、マウスはサイトカインストームを起こさず、睡眠不足でも生き延びることができたらしい。
「国家はなぜ衰退するのか」を読んだ
オンラインゲームをやめたらそれなりの可処分時間が出来て,湯船につかって1時間くらい過ごすことが多くなった。最近のお風呂のお供はアセモグル・ロビンソン*1の「国家はなぜ衰退するのか」という本。
この本の主張はシンプルなものの,歴史の知識が浅いせいで通読するのに時間がかかったので,読み終えた記念に読書感想文を書こうと思う。
メインの主張はシンプルで,「国家の長期的な経済的成功または失敗の主要な決定要因は,その政治的および経済的制度の性質,すなわち包括的であるか収奪的であるか」にあると主張する 。
あの......昔勉強したことと違うんですが……
「制度」以外の要因,例えば地理・文化が原因である,と説明されることがしばしばある。アセモグルとロビンソンはそれらよりもまして,制度が重要であると力説する。
地理的要因を重視するジェフリー・サックスやジャレド・ダイアモンド*2 といった研究者は,気候・資源・疾病環境といった地理的な条件が経済発展に大きな影響を与えると主張している。また,文化的要因を重視する (古い) 説もあり,例えばマックス・ウェーバーはプロテスタントの倫理が資本主義の発展を促したと論じていた 。 しかし,アセモグルとロビンソンは,地理的要因/文化的要因だけでは世界的な不平等を説明できないと反論する。例えば,同じ地域 --地理的条件や文化的基盤がそろった環境の下で-- でも制度が異なる地域間で経済発展に大きな差が見られる *3。もちろん地理的条件は無関係とまではいかないが,それは現代の国家間の貧富の差を理解するための主要なファクターではないとのことだそうだ。
心が温まる文章を引用しておこう。
我々はこう主張する。世界の不平等を理解するには,一部の社会がきわめて非効率的かつ社会的に望ましくない仕方で構築されるのはなぜかを理解しなければならない,と。国家は時として効率的な制度を採用し,繁栄を達成するものの,悲しいかな,それは稀なケースだ。 大半の経済学者や政策立案者は「正しく行う」ことに焦点を合わせてきたが,本当に必要なのは貧しい国が「間違いを犯す」理由を説明することである。 (…中略…) 伝統的に,経済学は政治を無視してきたが,政治を理解することは,世界の不平等を説明するのにきわめて重要である。経済学者のアバ・ラーナーは1970年代にこう述べている。「経済学は,解決済みの政治問題をみずらかの専門領域として選ぶことによって,社会科学の女王の称号を得てきた」(2章「役に立たない理論」から抜粋)
包括的制度と収奪的制度
国家の命運を左右する鍵となる概念として,制度を「包括的制度」と「収奪的制度」の二つに大きく分類された。
包括的経済制度とは,社会の広範な層の財産権を保護し,すべての市民が利益を得るために経済活動に参加できる制度を指します 。そして,長期的にこのような経済制度が存続するためには、社会の広範な層が国の統治に参加し,大多数にとって有益な意思決定を行うことを可能にする,多元主義的な,包括的政治制度 / 民主的制度が不可欠である 。
一方、収奪的経済制度とは,少数のエリート層が大部分の富を独占しているような状態を指します。収奪的経済制度は,人口の大部分を国の統治から排除し,すべての政治権力を少数のエリート層(貴族)の手に集中させる収奪的政治制度 / 独裁的・絶対主義的制度を伴います 。
この制度というレンズを通すことで,現代のグローバルな経済格差を理解することができると書かれている。例えば,先進諸国では,比較的包括的な経済制度(私有財産の保護・公平な法制度・起業の自由など)を有しており,それが経済活動・生産性向上・経済的繁栄を促進している 。一方,北朝鮮・ジンバブエ・シエラレオネのように極めて収奪的な制度を持つ国は,経済的に立ち遅れている 。
なぜ包括的制度が重要か?
この本の重要な論旨は,「持続的な経済成長のためには,包括的制度が不可欠である」というものである。歴史上の多くのケーススタディを通じて,この理論が裏付けしていくのがこの本の主題だ。だが,ここでは,歴史的事例を列挙するのは避け,重要な論点だけを挙げていこう。
まず,包括的経済制度が持続的な成長のために重要であることを以下に述べるが,包括的経済制度は包括的政治制度の下でのみ安定であることに注意したい。例えば中国のように,収奪的政治制度の下で部分的な包括的経済制度を達成している例もあるが,それはあくまで「エリート層の利益を揺るがさない」という条件付きで部分的な経済活動を収奪的制度のもと認めているに過ぎない。権力を一部のエリートが独占しているような状況下では,個々の財産権を認める自由な経済活動は不安定である。
持続的な成長のためにイノベーションを起こすことが不可欠である。しかし,個々の財産権が保証されない収奪的経済制度の下では,労働者がイノベーションを起こすインセンティブはない。
そして,イノベーションは,既存の枠組みを壊す「創造的破壊」を伴う。しかし,一部のエリートが権力を独占している収奪的制度の下では,既得権益を守りたいがために,そういった創造的破壊は嫌われ,イノベーションが積極的に阻害される。
これが「持続的な経済成長のためには,包括的制度が不可欠である」ということである。収奪的制度の下では,労働者は発明してもどうしようもないし,(影響の大きい発明であればあるほど) 権力者がそれを採用するインセンティブもない。
つまり,「イノベーションを許す基盤として,包括的な政治・経済制度が必要」ということである。
収奪的制度の下で,既知の生産方式によって一時的に大きな経済成長が実現できたとしても,イノベーションを潰さない基盤がないため,持続的な経済成長にはないらない。*4
粉みかん
広範な現象を単純な法則で説明するというのは非常に魅力的だ。素人なので読んでいる時は「うんうん,そうかそうか,制度が重要なんだな」と受け入れてしまったが,もちろん多くの批判がある。単純化しすぎだ,この歴史事例の解釈は間違っている……etc ここで批判を詳しく考えてみるのも楽しいだろうが,私にはそれを正しく行う技量も知識背景もないので,詳述しない。多くの著名な研究者による批判は実は英語版wikipediaに載っている: https://en.wikipedia.org/wiki/Why_Nations_Fail#Reception
しかし,いくらか批判はあれど,世界経済の不平等の根源を理解するための重要なファクターであるだろう。そして,制度の重要性を強調することで,貧困は決して避けられないものではなく,より良い制度を構築することによって克服できるという希望を与えてくれる。
チャーチルの「民主政治は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」とはよく言ったものだ。
*1:アセモグルとロビンソンは2024年のノーベル経済学賞を受賞した
*2:なぜか全高校生に勧められがちな書籍「銃・病原菌・鉄」 (いやいい本なんだけど) の著者として有名
*3: アメリカとメキシコの国境に,ノガレスという街がある。合衆国側のアリゾナ州ノガレスは,地理的条件・文化的基盤が揃っているのにも関わらず,メキシコのソノラ州ノガレスに比べはるかに裕福だ。この本の第一章で書かれていることだが,平均収入がトリプルスコアで違うらしい。
*4:中国の経済成長が無駄だといっている訳ではない; 個々人が豊かになり貧困から脱することは紛れもなくいいことであるし,非エリートが豊かになれることは,いずれ多元主義につながる可能性もある。
多様性作文のためのtips
職種によっては,「多様性についてウンタラカンタラ」といった作文をしなければならない時がある。そんな時には,エビデンスに基づいた多様性作文を行えるように,「多様性が知的労働にどう影響するか」について勉強しておくと良いだろう。この記事では,その多様性作文の素材を提供することを目的として,ダラダラと書こうと思う。
時代流れとしては,行きすぎたアファーマティブアクションからの揺り戻しを感じるこの頃ですが,ノリだけで過剰に保守的にならないように,根拠に基づいた多様性の効能を知っておくと有用だろう。
多様性とは
多様性とは,個人や集団が持つ様々な属性(人種,性別,年齢,文化,価値観,知識,経験など)の差異を指します。 高い多様性を持った集団は,より多角的な視点から問題を捉えることができたり,異なる意見が交錯することで,新たな発想や解決策が生まれやすくなったりすることが期待できるかもしれない*1。
多様性はどう知的活動に影響するか?
多様性が知的活動にもたらす影響について,いくつかの研究に基づいた見解を紹介します。論文を読もう!
メタアナリシス: パフォーマンスと創造性
Horwitz and Horwitz (2007) *2 チームの多様性がチームの成果に及ぼす影響についてのメタアナリシス。「タスクベースの多様性(職務経験など)がチームのパフォーマンスにプラスの影響を与えるが,生物人口統計学的な多様性 (性別・年齢・居住地・etc.) はチームのパフォーマンスと有意な関連がなかった」ことが示唆された。*3
さらに,Joshi and Roh (2009)*4 のメタアナリシスでは,タスクベースの多様性はパフォーマンスと弱い正の相関があるが,生物人口統計学的な多様性はパフォーマンスと弱い負の相関がある。多くの調査をしているが,面白い発見は,この性別・人種的な多様性による負の効果は, (ハイテク業界のように) そもそもの環境が偏っていると深刻になるが,偏りが少ない多様な環境 ("balanced setting") だと逆に (性別・人種的な多様性が) ポジティブな影響をもたらすことである*5。
Hülsheger, Anderson, and Salgado (2009) のメタアナリシス*6では,創造性・イノベーションにつながる要素について分析した*7。多様性に関することとしては,「タスクベースの多様性(職務経験など)が創造性・イノベーションにプラスの影響を与えるが,生物人口統計学的な多様性はチームのパフォーマンスと有意な関連がなかった」ことが確かめられた。
Stahl et al. (2010) *8のメタアナリシスでは,「文化的差異が,葛藤・社会的な統合の減少によるプロセスの損失につながる一方で,創造性や満足度の向上につながること」を示唆した。
その他の重要な研究
視野を広げること「拡散的思考」,は良い意思決定のために良いこととされていて,Nemethらによる複数の研究 *9 では,「少数派の意見にさらされると拡散的思考につながり,多数派の意見にさらされると収束的思考につながる」ことが心理学実験で示唆された。
Hong & Page (2004) の研究*10では,「多様な問題解決者の集団は,能力の高い問題解決者の集団よりも優れた成果を上げることができる」ことが数理モデルで示唆された。
チームにおける衝突 (コンフリクト) はイノベーションを促進する (ただしタスクに関するもので,衝突が適量であれば) (De Dreu (2006)の研究*11 )
Phillips, Liljenquist, and Neale (2009)の研究 *12 では,社会的に異なる新参者がいるグループ(多様なグループ)は,パフォーマンスに対する自信が低く,交流があまり効果的ではないと認識していたが,社会的に異なる新参者がいるグループ(同質なグループ)よりも優れたパフォーマンスを発揮した。面白いことに,「新参者が新しいアイディアを持ってること」ことがパフォーマンス向上に寄与したことを示したのではなく,「社会的に異なる新参者の存在・それが刺激する社会的関心事それ自体が,感情的な痛みを認知的な利益に変換するモチベーションを与える」ことがパフォーマンス向上につながったと報告されている。
総合して,「タスクに関係した要素について多様性があると良い」ことは,多くの研究でコンセンサスが取れていると言っていいでしょう。性別・人種といった要素は,パフォーマンスや創造性について,統計的に有意じゃなかったり,負の相関があったりするようです。でもこれは偏った環境かそうじゃないかで負の相関か正の相関かが異なるみたいなので,意味のある提言を出すには程遠そうです。
この記事を書いた感想
本記事では,いくつかの研究に基づいた多様性の効用を紹介してきました。仕事に関係した多様性は間違いなく重要と言っていいでしょうし,異なる考えを持っている人と衝突することは新しい発想につながるのも,直感的にそうかなという気もします。
Joshi and Roh (2009)で見られた性別・人種などが偏った環境になると多様性がパフォーマンスを阻害する,というのはなんとなくマイノリティが孤立して不利な環境になってしまっていることを反映しているのかな,という気持ちになります。多少勇み足のアファーマティブアクションを行なってでも今のうちにbalanced settingに近づけることは有益だ,という意見に同意したい気持ちもありますが,自由と人権を信奉する人間としては「機会の平等は犯してはならない聖域」という信念があるので,もうちょっと考えて多様性政策をとってほしいところではあります。
多様な環境だと,コミュニケーション・チームワーク・心理的安全性が課題になる気はしていて,その配慮は欠かせないので,小規模なグループだとそれを受け入れるコストを払うかどうかが悩ましいところです。コンフリクトもイノベーションには貢献しますが,短期的な利益のみを追求するなら,小規模なグループだと場合によっては画一的な環境のほうが良いかもしれないのかもとも思ったり。大規模なグループはもっと長い目で見た方がいいし,多様な人を必ず受け入れることになると思うので,多様な環境づくりは欠かせないですね。
人類はここたった数百年で驚くべき文明をつくり,ついに多くの国で人権が意識されるところまで来ました。昨今の多様性のムーブメントは,実際の施策は賛否あるところだと思いますが,少なくとも「どんな人間に対しても寛容であれ・迫害をするな」という原則を認める風潮を作った*13という点では,非常に長い目で見れば良いことです。某国の政権交代に触発され揺り戻しの流れができてしまうのでしょうが,人類の進歩を止めないものになることを願います。
おまけ: 学術研究と多様性 (相関ですよ!)
- Freeman and Huang (2014, 2015) の研究*14では,1985年から2008年にかけて米国を拠点とする著者によって書かれた250万以上の科学論文における著者の民族的アイデンティティが調べられた。 まず,類似した民族の人々が,著者の間での割合によって予測されるよりも頻繁に共著者になっていることが発見された。重要なことは, より大きな同質性は、インパクトの低いジャーナルへの掲載と、引用数の少なさに関連している。一方、より多くの場所の著者と、より長い参考文献リストを持つ論文は、インパクトの高いジャーナルに掲載され、他の論文よりも多くの引用を受けている。
*1:好きですよねこういう多角的な視点とか何も言っていないに等しい言葉!作文する時にはどうしても書いてしまうんですが 悲しいことに
*2:Horwitz, S. K., & Horwitz, I. B. (2007). The effects of team diversity on team outcomes: A meta-analytic review of team demography. Journal of Management, 33(6), 987-1015.
*3:関係して,異質なグループの方がパフォーマンスが統計的に有意ではない程度に""高い"" (つまり,なんもいえない) というメタアナリシスもある。 Bowers, C. A., Pharmer, J. A., & Salas, E. (2000). When Member Homogeneity is Needed in Work Teams: A Meta-Analysis. Small Group Research, 31(3), 305-327. https://doi.org/10.1177/104649640003100303
*4:Joshi, A., & Roh, H. (2009). The role of context in work team diversity research: A meta-analytic review. Academy of Management Journal, 52, 599–627. 組織設定で行われた39件の研究における8,757チームのデータを用いて、業界、職業、チームなどの複数レベルの文脈的要因が、関係指向の多様性とタスク指向の多様性のパフォーマンス結果に影響を与えるかどうかを調べた研究。
*5:年齢については,負の効果は小さくなるもののポジティブな影響に変わることはなかった
*6:Hülsheger UR, Anderson N, Salgado JF. Team-level predictors of innovation at work: a comprehensive meta-analysis spanning three decades of research. J Appl Psychol. 2009 Sep;94(5):1128-45. doi: 10.1037/a0015978. PMID: 19702361.
*7:チームの人間の多様性といったinput variableよりも,コミュニケーションやビジョンといった"Team process variables"の方が影響が大きかったことを注意しておくことも有意義である
*8:Stahl, G., Maznevski, M., Voigt, A. et al. Unraveling the effects of cultural diversity in teams: A meta-analysis of research on multicultural work groups. J Int Bus Stud 41, 690–709 (2010). https://doi.org/10.1057/jibs.2009.85 10,632のチームを調査した108の研究に基づいたメタアナリシス
*9:3つの研究のreview: Nemeth, C. J. (1986). Differential contributions of majority and minority influence. Psychological Review, 93(1), 23–32. https://doi.org/10.1037/0033-295X.93.1.23 その後も,アナグラム解決による実験: Nemeth, C. J., & Kwan, J. L. (1987). Minority influence, divergent thinking and detection of correct solutions. Journal of Applied Social Psychology, 17(9), 788–799.
*10: Hong, L., & Page, S. E. (2004). Groups of diverse problem solvers can outperform groups of high-ability problem solvers. Proceedings of the National Academy of Sciences, 101(46), 16385-16389. 「問題解決エージェント」の数理モデル的定式化を与える。この研究では,多様な集団から問題解決チームを選択する場合,ランダムに選択されたエージェントのチームが,最高のパフォーマンスを持つエージェントで構成されたチームよりも優れたパフォーマンスを発揮することを発見。
*11:De Dreu, C. K. (2006). When too little or too much hurts: Evidence for a curvilinear relationship between task conflict and innovation in teams. Journal of Management, 32(1), 83-107. チームにおける衝突 (コンフリクト) がイノベーションに与える影響についての研究。2つの実験を行なって,1つ目は「タスクに関するコンフリクトが中程度の場合にワークチームの革新性が高くなること」が示唆された。2つ目は「(人間)関係コンフリクトにはそう言った効果が確認されなかったこと」,「タスクコンフリクトがイノベーションを刺激することは協調的な問題解決によって媒介されること」,「中程度のタスクコンフリクトはチームのイノベーションを促進する可能性がある一方で,チームにおける短期的な目標達成を減少させること」が示された。
*12:Phillips, K. W., Liljenquist, K. A., & Neale, M. A. (2009). Is the pain worth the gain? The advantages and liabilities of agreeing with socially distinct newcomers. Personality and Social Psychology Bulletin, 35(3), 336–350.
*13:全然そんなことはないという例はたくさんあると思いますが,昔に比べたら寛容さは大幅に進歩したと思っています。これは個人的な肌感覚ですが。(私は50年前だったらきっと生きてはいない。)
*14:Freeman, R. B., & Huang, W. (2014). Collaboration: Strength in diversity. Nature, 513(7518), 305; Freeman, Richard and Huang, Wei, (2015), Collaborating with People Like Me: Ethnic Coauthorship within the United States, Journal of Labor Economics, 33, issue S1, p. S289 - S318.
【読書感想文】病んだ科学との向き合い方 / "Science Fictions" by Stuart Ritchie
最近,ハマっていたネトゲに萎えてきたせいか分からないが,有意義な休日を過ごそうという活動がマイブームになっている。そこで,たまには気になっていた本でも読んでみようとなんとなく買った本が「Science Fictions あなたが知らない科学の真実 (スチュアート・リッチー著,矢羽野薫訳)」だった。なんとなく読み始めたが,面白さは天元突破していたのでうっかり読書感想文を書き出してしまった*1。
ポピュラーサイエンスに毒されて「最近の研究では〜〜」と蘊蓄を垂れ流してしまう人から,科学を信頼して意思決定の材料に使うエラい人まで,ぜひ知っていてほしい話が書かれています。そういった高尚な話を傍においても,普通におもしろエピソード (実話) がふんだんに織り込まれていて,エンタメとしてもすらすら読めます。
導入: 再現性の危機と不正
秀逸すぎる引きの初めの一文から紹介しよう。
2011年1月31日,大学生に超能力があることが世界に知れ渡った。 その日,新しい科学論文が話題を集めた (・・・中略・・・) どこかの酔狂な変人の論文ではない。執筆者は,アイビーリーグのコーネル大学のダリル・ベムという一流の心理学教授だった。しかも無名な科学雑誌ではなく,心理学の世界でも権威ある主流の学術誌に,査読を経て掲載されたのだ*2。
結局はこの実験に再現性がなかったというオチなので安心してほしい (この本の著者自身が再現実験を行い,ネガティブな結果を得ている)。問題は,こんな (おそらくは) 偶然の上振れでポジティブな結果を出したら評価され,この本の著者らの再現されたかったという結果は,この雑誌に掲載拒否された点だ。
ひたすらポジティブで,インパクトある結果だけがプッシュされ,ネガティブな結果は軽んじられる。この評価システムが多くの科学を捻じ曲げ,ないものをあると言ってきた。科学の評価システムは病んでいる。そしてこの病んだシステムが,再現性のない論文を量産し,真実を横に追いやっている。
また,科学は常に結果が求められている一方で,性善説に強くよっているため,ハックする人が現れる。研究不正だ。社会心理学者ディーデリク・スターペルは,「混沌はステレオタイプ化を促進する」という主張の論文を書いて一躍注目を集めたが,その実験結果は全てが捏造だった。
これらの「症状」はレアケースではない。(かのファスト・スローで「信じない選択肢はない」とまで書かれた)「プライミング効果」など一世を風靡した心理学の定説が,再現性の危機に直面している。科学が病んでいる。これは人類の知識が捻じ曲げらているというだけの話ではない。政治や医学の意思決定に影響すると,人の命まで犠牲になる。とても悲しい。この本は,こんな科学の現状を反省し,科学の将来について語る。
病状: 詐欺・バイアス・過失・誇張
病んだ科学の症状として,詐欺・バイアス・過失・誇張があげられている。衝撃的な多数の事案がこの本で紹介されているので,知りたい人はぜひ読んでほしい。各項目をざっくりというと,
- 詐欺: なんで科学に不正があんだよ 教えはどうなってんだ教えは
データの捏造など明らかな研究不正。あまりにショッキングなので,ニュースでもたまに取り上げられる。STAP細胞事件やシェーン事件も記憶に新しい。個別の面白話として,「黒色のマウスの皮膚を拒絶反応なしで白色のマウスに移植を成功しました!」という報告がされたが,実はサインペンで塗っただけであることが発覚するといったギャグ展開も実話らしい。*3
- バイアス: 「真実」はいつも上振れ!
出版バイアス・不正な統計検定。派手さはないが,おそらく科学を病んだものにしている一番の要因はこのバイアスである。ポジティブな結果だけが望まれ,nullの (ネガティブな) 結果は出版には至らない。こうして偏った上振れを引いただけの論文が積み重なり,架空の真実が形成される。これが出版バイアスである。 また,よく「統計的に有意」とか言ったりするが,その判定をする統計量「p値」を (故意か過失か) ハック*4して有意であるかのように見せる研究も蔓延っている。統計検定での不正は,論文の査読で気づくことはできず,なんなら不正と思わず行なっている研究者も一定数いる。 多くの研究で小さすぎるサンプルサイズで有意な結果を出そうとしているのもこの類だろう。
- 過失: うぐっ…ごめんなのだ…ぶたないで…ぶたないで欲しいのだ… (ただし主張に有利なミスが多い)
過失があって結論が変わる事例も多い。大規模な調査では,ミシェル・ナウテンらは,1985--2013年に8つの心理学誌に掲載された論文3万件以上について,統計量に矛盾がないかのチェックを行ったところ,半数近くに少なくとも1つの矛盾が見つかり,13%の論文は結論に影響が出る深刻な誤りだった*5。 個別の面白話としては,ほとんど誰もが知っているあの「認知的不協和」の元祖の論文に,数値的な矛盾があったが気に留められていなかったという話もある。
- 誇張: 見て!科学者が生き残るために誇張しているよ かわいいね
統計的に有意じゃなくても「もうちょっとで有意になりそうなんです!!!これはきっと意味があるんです!!!」って書いたりとか,相関関係を因果関係に誇張してプレスリリースや大衆向けサイエンス本を書くとか。 誇張の例をいくつかあげてみると,一時教育行政に影響を与えるほど流行った「成長マインドセット」が,後のメタアナリシスで効果が全然しょぼかったことが判明した。プライミング効果は一時大盛り上がりだったが,現在は再現性の危機に直面している。また,栄養学も心理学と似たように再現性の危機が深刻である。有名な例で言えば,「飽和脂肪酸を不飽和脂肪酸で置き換えるべき」という話をどこかで聞いたことがあるだろう。しかしながら,2017年の飽和脂肪酸と多価不飽和脂肪酸の死亡・心疾患への影響を評価したメタアナリシスでは確認されなかった。*6
処方箋: 科学を科学する
前説で症状を紹介した通り,インパクトある結果を出し論文を書き続けなければ生きていけないアカデミア業界は病んでしまい,科学として誠実であることを忘れつつある。インセンティブ設計が誠実さに逆行しているのが原因である。一体どうすれば有限の人類の資源を有効に活用できるのか考えてみよう。
できそうなこととしては,
- まずは過失・明らかな捏造は防ごう
画像の複製チェック・GRIM/statcheckといったすぐにわかる数値の矛盾をチェックしてから論文を受け付ける。 これは学術誌がそうすることを決めるだけで良い。
- ネガティブな結果も評価して,出版バイアスを軽減しよう
そういう機運もあって,例えば Home page | Journal of Negative Results in BioMedicine という雑誌も出てきて,世界はより良い方向に進んでいると思われたが,残念ながら2017年に廃刊となった。科学者コミュニティでの評価が変わらないとどうしようもない悲しい事例となった。 とはいっても,少しづつは良い方向に向かっているらしい。再現性の危機が話題になって以降は,再現実験の投稿も認める/推奨するような学術誌も増えてきた。
- p値ハックを防ぎたい: 事前登録制度
本来の統計検定は,仮説があって,データを集め,仮説を検定する。あらかじめ「こういう仮説を検証するため,こういう実験を行う」と登録させれば,典型的なp値ハックは防ぐことができる。アメリカでは2000年から政府の資金援助を受ける臨床試験に義務付けられているらしい。違反者をどうするかなど考えるべき点も多いが,これも良い傾向だろう。
- オープンサイエンスの理想
研究プロセスのあらゆる部分を,可能な限り誰でも見れるようにしよう という思想 (税金で研究してるなら成果物は国民が誰しも見れるべきですよね??みたいな思想も入っている)。 もし研究過程が全てオープンだったら不正やp値ハックは行いにくくなる。もちろん全てをオープンにするのは安全保障的な問題やプライバシーの問題等もあるが,理想に近づけばまたちょっとだけ世界をよくできる*7。
といったものがある。 しかし,抜本的には大学人事/コミュニティ内評価や研究資金の分配制度をなんとかしなければならない。
ほとんどの場合,研究の補助金は申請書を別の科学者が審査し,スコアをつけて分配を決めている。しかし,このスコアと研究の"質"に相関がなかったと言う報告もあり*8,いっそのこともう一定基準を満たしている科学者には一律/抽選で配るべきではと言う意見もある。
何が最適かは「科学に対する科学的な知見 (メタサイエンス)」を深めていく必要がある。いずれにせよ制度を改めて派手さに過剰なインセンティブを与える現状は変えなければならない。科学者コミュニティからも,学術行政からも,「インパクトがあるが根拠がない」よりも「退屈だが信頼できる」を評価する空気を醸成し,ちょっとづつ世界をよくしていこう。
世界は,科学が私たちにもたらしたものを誇りに思っている。それは正当なことだ。その誇りを維持するために,科学者は人間の欠陥ある気質の産物よりもはるかに優れたものを提供する義務がある。
私たちは科学に真実を語らせる責任がある。
ナイスポエム 心が温まる
感想: 私たちはどう向き合うか
ポピュラーサイエンス本を読むのは楽しいし,なんか「最近の研究では〜〜〜」って胡散臭い人が情報を垂れ流してくる動画を鑑賞するのも愉快である。誇張された大学のプレスリリースを読んでクスってするのも楽しい。 つまらないものよりもキャッチーなものの方が目に留まるし,そういう刺激物の方が楽しいのは仕方ない。
でも,そういった情報に触れる時には,「1つの研究でそのまま信じない」ことを心に留めて,眉に唾をつけて見ないといけない。多くの分野の基準では,本当になんの不正が一切なかったとしても,「統計的に有意」は5%の上振れを引いているだけかもしれない。(そして,上振れを引かなかった研究は我々の目にはとまらないことが多い)
科学が「ほとんどつまらないが信頼できる」科学を取り戻すまでの間,受け止める側はリテラシーを高め,少し冷静に大衆本やプレスリリースを受け止めるべきだろう。*9
学者 (scholar) の語源を辿ると,ギリシャ語のskhole (暇) に行き着く。学者は暇人だったのだ。にも関わらず,現代の研究者は競争や雑務にさらされ,なぜか暇人から程遠い。近いうちにシステムが大きく変わって,研究者が暇人に戻り,腰を据えて真実と対話できる世界になることを願って。
追記 (再現性の危機リスト)
FORRTと言う団体
が有名な論文の再現性のステータスをまとめているものがあります: https://forrt.org/reversals/
また,その前身のリストもあります
カーネマンやアリエリーの大衆本を読んで胸を膨らませていた時にはもう戻れません でも地に足がついた科学を進めるのは良いことです
*1:もしかしたら人生で初めての読書感想文かもしれない
*2:Bem DJ. Feeling the future: experimental evidence for anomalous retroactive influences on cognition and affect. J Pers Soc Psychol. 2011 Mar;100(3):407-25. doi: 10.1037/a0021524. PMID: 21280961.
*4: 代表的には,HARKing (hypothesizing after the results are known)が知られている。本来統計検定は仮説を用意してそれを検定する実験を行うが,実験を行なってからそれに合うような仮説を立てるのは不正である。 これをやるとノイズから意味ありげな法則をでっち上げる詐欺師になる。
*5:Nuijten MB, Hartgerink CH, van Assen MA, Epskamp S, Wicherts JM. The prevalence of statistical reporting errors in psychology (1985-2013). Behav Res Methods. 2016 Dec;48(4):1205-1226. doi: 10.3758/s13428-015-0664-2. PMID: 26497820; PMCID: PMC5101263.
*6:Hamley S. The effect of replacing saturated fat with mostly n-6 polyunsaturated fat on coronary heart disease: a meta-analysis of randomised controlled trials. Nutr J. 2017 May 19;16(1):30. doi: 10.1186/s12937-017-0254-5. PMID: 28526025; PMCID: PMC5437600.
*7: 昔は論文は学術誌を買わないと見れなかったが,今はいくつかの分野ではプレプリント文化があり,投稿前の論文を公開サーバーに置く慣わしがあって,オープンサイエンスにちょっとづつ近づいている。
*8: アメリカNIHの補助金の審査スコアに関する研究 Fang FC, Bowen A, Casadevall A. NIH peer review percentile scores are poorly predictive of grant productivity. Elife. 2016 Feb 16;5:e13323. doi: 10.7554/eLife.13323. PMID: 26880623; PMCID: PMC4769156.
*9:この本のAppendixの「科学論文の読み方」で挙げられている10項目を気にすることは,結果を過大評価しない助けになると思う。
【個人用備忘録】QCQI Ch. 12 その1 【No-cloning theorem, Holevo's bound】
文献はもちろん M. A. Nielsen, I. L. Chuang, "Quantum Computation and Quantum Information" (2nd ed.), Cambridge University Press (2010) です. この手の解説は無限にあると思うし,なんなら古い教科書なので最近の発展を一切含まない話なので,私以外の人にとってはこれを読む価値は全くないのですが,アウトプットしようと思わないとすべてを忘れて何も残らない (超重要) ので,ブログに残しておきます.その1は12.1節しかcoverしていません.
No-cloning Theorem
みんな大好きno-cloning theoremです.生まれた時から知っていました (自明な嘘).名前だけ聞くと量子状態はコピーできないのかなという気分になりますが,正確なstatementは,
直交しない2つの状態をコピーできるunitary操作は存在しない より正確に言うと, 任意の直交しない2つの非ゼロの状態
について,(1)
と (2)
の (1), (2) を満たすようなunitary演算子
は存在しない (
は適当な状態).
というものです.これの証明は簡単 (そのようなunitary operationが存在すると思ったときに,ノルムが保存しないから矛盾って言うだけ).注意として,コピーしたい状態を既に知っているならば無限にコピーできるし,コピーしたい状態が例えば「 のどちらかだ」,と知っているときにも可能です.じゃないとCNOT gateとかアウトですからね *1.
これのcorollaryとして,
すべての状態をコピーできるunitary操作は存在しない
が言えます.たぶんこっちが有名.
Holevo’s bound
直交していない状態を完全に区別することができないのは有名ですが,「測定によって状態についてどこまで引き出すことが出来るのか」を定量化したものがHolevo's boundです.
setup
確率 で状態
なるものが送られてくるとき,その状態を測定して,送られてきた状態がどの
かを判別したい.
Holevo’s boundは,「測定によって,どこまで知ることができるか」ということについてupperboundを与えるものです.
「測定結果 から,状態のラベル
について,どこまで知ることができるか」を定量化するために,相互情報量 (mutual information, accessible information)
を定義します.*2 *3
statement
上記のsetupのもとで,次の不等式が成り立ちます
ここで
. *4
この右辺はHolevo χ quantityと呼ばれる量で,量子情報のいろんなところで出てくる量です.
この不等式の右辺がYによっていない (どんな測定をするかによらない) ことが大事で,これにより「どんな測定をしたとしても,得られる情報量はHolevo χ quantityで抑えられてしまう」ことが言えます.
証明はしません.軽いメモという名目なので ブログに書くのがだるいので.測定結果を格納するancilla systemを加えて,quantum mutual informationをstraightforwardに計算すればできた気がします.
直感を養う
statementを述べただけでは「へーそうなんだー」で終わるので直感を養うためにいくつかコメントを加えます.
- von Neumann entropyについて,次の不等式が知られています.(Nielsen-Chuang, Theorem 11.10)
等号成立は
たちがorthogonal supportを持つとき (pure stateなら,状態が直交しているとき)
この不等式とHolevo boundを合わせると, が得られます.
そして等号成立の可能性は, たちがorthogonal supportを持つときに限られます.これはとても直感的で,accessible informationが最大 (
) のとき,「Yを知った後にものこるXの不確かさ」
がゼロになります. この時は,Yが分かればXが完全にわかる,つまり測定から状態の区別ができる,ということになり,それが可能なのは状態が互いに直交している場合に限られるので,この等号成立条件は常識とconsistentになっています.
- 古典的な確率論の話で,確率変数Xから確率変数Yをどれくらいうまく推測できるか,ということに関して,conditional entropyを使った次の不等式が知られています.
Fano不等式
YからのXのguessを
と書き,それが外れている確率を
と書きます.このerror probabilityとconditional entropyについて,次の不等式が成り立ちます.
,
ここで1項目はbinary entropy, 2項目の
はXの要素の数です.
証明はしません.具体例であそんでみると分かるのですが,これはerror probabilityについて,ある種のlower boundを与えています.「Yを知った後にものこるXの不確かさ」 がそれなりにあると,全然正しいguessができないというのはそれはそうという感じです.
自明な変形ですが,次のようにも書き換えられます.
ここから,次のような気持ちが得られて気持ち良くなれます:
χが小さい ↔ accessible information
を大きくできる ↔ 正しいguessができる (
を小さくできる)
χが大きい ↔ accessible information
がどうしても小さい ↔ 正しいguessができない (
を小さくできない)
下書きを抱え込むと永遠にアウトプットしない (超重要) ので,その1はここで区切ります.そのうちその2を書きます.
*1:00 -> 00, 01 -> 11とかやるので,control bitをある種コピーしている
*2: この記事では で古典Shannonエントロピー,
でvon Neumannエントロピーを表すこととします.
*3:なぜこの量が「 から,
について,どこまで知ることができるか」を定量化するのか,ということについては,conditional entropyに書き直すと分かりやすいです.
これは, は「もとからあるXの不確かさ」を,
は「Yを知った後にものこるXの不確かさ」を定量化するものなので,その差分は「Yを知ったことで,不確かさがどれだけ削減されたか」を意味します.これはまさに,「Yを知ったことで,Xについてどれだけ分かったか」を測る量となっています.
*4: は 確率
で状態
を古典的に重ね合わせた状態なので,まさに測定する前の量子状態がこれ
Raspberry Pi clusterでMathematicaを使う
雑記です。コロナ騒ぎでいつも使っていた計算機の使用に"面倒なこと"が増えてしまったので、「自前でクラスター作るチャンスだ!」と思い、試しに試行錯誤した記録を残します。とりあえず方法を知っておくことが目的だったので、Raspberry Pi 4 Model B/4GB *2個で遊んでみました。
参考になるかもしれない文献は
- B. Jacobus and RJ Podeschi, `` Low-cost cluster computing using raspberry pi with mathematica' ', Proceedings of the EDSIG Conference, (2017) ; http://proc.iscap.info/2017/pdf/4363.pdf
です。
Background
Raspberry Pi は安価な手のひらサイズのコンピュータです。素晴らしいことに、Raspberry PiはWolframと提携していて、無料でMathematicaを使うことができます! *1 一方で、Mathematicaは普通にライセンスを入手するととても高い *2。
このような状況にあるので、raspberry pi clusterでmathematicaを使うと低コストでmathematicaの重い計算を回せるかもしれない。
準備
揃えるもの
まずは動くraspberry piを欲しい数だけ揃えます。n個準備したいなら、
- Raspberry Pi 4 RAM 4GB *3 n個
- 電源ケーブル・ヒートシンク・マイクロSDカード*4 n個
- usbマウス・キーボード一式
- micro HDMIから任意の端子へのケーブル(例えばHDMI(A))・その端子が出力できるモニター 1つ
を準備する。*5
ここでは方法を紹介するに留めるので、とりあえず2つ準備します。
VNC: リモートで操作する
n個マウス・キーボード・モニターが準備できればそれでいいのですが、それはむしろコストがかかるので、リモートでPCやタブレットで操作できるようにしておきます。 基本的には
- IP addressを固定する。
- Raspberry PiでVNCを有効にする。
- Real VNCをクライアントに導入する。
をすればよいです。これに関してはよい解説が容易に見つかると思うので、詳しくは省略します。
Passwordless SSH
Mathematicaがデバイスを超えてコマンドを実行するために、SSHの準備をしておきます。*6
クライアント側 (使う方) で公開鍵を生成し、それをサーバー側 (使われる方) に認証させます。相互に認証させ、行き来できるようにします。 あるデバイスを一つ決め (master)、そのデバイスからそのほかの全てのデバイスにログインできるようになっていれば良さそうです。
操作は次の通りです。
- クライアント側でsshキーを作成: "ssh-keygen"を実行 *7 。この際パスワードは入力しない。
- 続けて、home/pi/.sshのディレクトリに公開鍵ファイル id_rsa.pubが生成されていることを確認。*8
- サーバー側のhome/pi/.sshのディレクトリ (無ければ作る) に "authorized_keys" というファイルを作成
- クライアント側で生成したid_rsa.pubの内容をさっき作ったauthorized_keysにコピー。id_rsa.pubに書いてある「ssh-rsa 何たらかんたら」を (2つ目以降なら改行して) authorized_keysにぺたぺた貼り付けます。 *9
- これで準備は完了です。繋がるかテストするには、サーバー側をrebootしたあと、クライアント側から"ssh -i .ssh/id_rsa pi@(サーバー側のipアドレス)"を実行してつないでみるとよいです。 *10
- 上記の操作を、全てのデバイスに対して、
自分自身を除く全てのデバイスの公開鍵をauthorized_keysに書き込むまで繰り返します。あるデバイス (master) の公開鍵をauthorized_keysに書き込むまで繰り返します。
こうしてSSHの準備が整いました。
Mathematica Remote Kernel Configuration
Mathematicaがremote kernelを使えるようにします。操作は次の通りです。
- Mathematicaを立ち上げ、FrontEndTokenExecute["PreferencesDialog"]を実行します。
- Parallel tab -> Remote Kernels -> Enable Remote Kernels -> Add Hostと進みます。

- Host nameにRemoteで使用するraspberry piのipアドレスを入力する。 -> Kernelを4にする。他はデフォルトで良い。-> Enableにチェックを入れる。

これで終わりです。諸々めんどくさいことは自動でやってくれる!うれしいね!
動かしてみる。
便利なコマンドにParallelCombineなるものがあります。
AbsoluteTimingで時間を測ってあげて、とりあえず素数を104個求めてあげましょう。構成はRaspberry Pi 4 Model B/4GB *2個です。 比較のため、local kernelでの評価も行ってあげます。なのでMathematicaで
AbsoluteTiming[ParallelCombine[Prime,Range[10000]]]
と
AbsoluteTiming[Prime[Range[10000]]]
を行ってみます。すると並列化した方は0.283021 sec、並列化してない方は0.01479 secかかりました。並列化しない方が速い!悲しい!
並列化による通信コストを頭に置いておかないといけないかもしれません。
これで終わってしまうのも悲しいので、素数を106個求めてあげました。結果は並列化した方は2.97868 sec、並列化してない方は7.05872 secで、ちゃんと2倍程度早くなっていました。

Mathematicaの並列計算について、コマンドは公式ドキュメント
を参考にしてください。だいたいParallelize[]関数で全部やってくれそうな気がします。 *11
こうして複数デバイスでの並列化をすることができました。
感想
RPi4は普通に一台で強いので、たくさん買えば結構重い計算を投げることができそうです。 でもRPi 4で遊んでると保冷剤がすぐ溶けてしまう。熱い。
*1:https://www.wolfram.com/raspberry-pi/
*2:https://www.wolfram.com/mathematica/pricing/
*3:記事を書いている時点で最も高スペック。スペックは
Raspberry Pi 4 Model B specifications – Raspberry Pi
参照。記事を書いている途中で8GBのモデルが発売されてしまいました……
*4: Raspbianを入れておく。例えば https://www.kkaneko.jp/tools/raspbian/raspbian_install.html
*5: 探すのがめんどくさい人には、代理店によるスターターキットがある。 https://raspberry-pi.ksyic.com/main/index
*6: 例えば、 https://qiita.com/hinemoss/items/2bdc2293c84bc1001214 などの解説があります。
*7: デフォルトではRSA 2048bit; RSAでない他の暗号化方式を採用する場合は-t optionを使う。
*8: 同時に生成されているid_rsaは秘密鍵なので扱いには注意すること。
*9:セキュリティが不安なら、/etc/hosts.denyと/etc/hosts.allowを編集するなりして、接続可能なipを指定するとよい。
*10:接続しても接続した感がつかめないですが、exitしてみるとどのipからログアウトしたかわかる。
*11:AbsoluteTiming[ParallelCombine[Prime,Range[10000]]]の代わりにAbsoluteTiming[Parallelize[Prime[Range[10000]]]]を実行してもほとんど同じ時間で結果を返してもらえる。